先日、懇意にして下さっている地域の方からお誘いを受け、飲み会に行くことになりました。
お酒も飲まないし、お金もなく、人間関係に恐怖心を抱いてしまった私は、逮捕されて以降、大勢が集まる飲み会というものには全くと言っていいほど行ったことがありませんでした。
誘って下さったのは地域で民泊を経営されている年配の方で、その集まりは岐阜県に関わりのあった人間を集めるという変わった趣向のものでした。
私は短大生時代に岐阜県に住んでいたことを以前話していたためか、お声を掛けて頂くことが出来ました。
会場には8名ほどのメンバーが集まりましたが、何名かは初対面の方もいました。
それだけであれば記事にするまでもないことなのですが、参加者の中の1名に、地域の観光協会にお勤めの方がいたのです。
観光協会の方だと知って、私は胸騒ぎがしました。これは平和な飲み会では済まないかもしれない・・・
初対面同士の人がいるということで各自が自己紹介をすることになったのですが、私は手短にこう答えました。
「初めまして、静岡県から移住してきて2年半ほどの、加納と申します。よろしくお願いいたします。」
それを聞いた観光協会の方は、とっさに下の名前を聞いてきました。
私はドキッとしながらも、「ケンシロウといいます・・・。」と答えました。
すると、観光協会の方は一呼吸置いて
「もしかして文化展に作品出されてました?」
と聞いてきたのです。
そうです、その方は去年の文化展の時に、あの手紙を受け取っていた人だったのです。
この手紙は文化展実行委員会の他、観光協会と町役場の計3箇所に送りつけられていました。
1年前にそのうちの一通をその方が受け取り、中身を見ていたことを覚えていたのです。
名前を言っただけで犯罪者であることがバレてしまう。これはとても恐ろしいことだと思います。
私はとても気まずくなりました。どんな顔をすればいいか分からなくなり、飲み会の場にいることが急に怖くなりました。
しかし、そこで逃げてはダメだと自分に言い聞かせ、話の流れを見つつ、7人の参加者の前で自分の過去を正直に打ち明けることにしました。
すると、それを聞いた皆さんは私を責めることはせず、「それは辛かったね」と気持ちを汲み取って下さったのです。そして皆さんが私を励ましてくれました。
「どんなに暗くて辛い過去があっても、今の加納さんが幸せならそれでいい。」
そう言ってくれた人もいて、私は胸が熱くなりました。
やっぱりこの町に住んでいて良かったと改めて思いましたし、こうして人の優しさに触れるごとに、少しずつ傷が癒えていくような気がしました。
それだけでなく、観光協会の方はその手紙を受け取った時に職場はどんな雰囲気だったかを話してくれました。
「こんなものをウチに送りつけて、何がしたいの?」
「加納さんって人にこういう過去があったとして、だから何なの?」
「これJRの人間が送ってきた感じだよね、怖い会社だね。」
そんな空気だったと教えてくれました。
誰も加納さんのことを卑下したり、犯罪者がこの町に住んでて怖いとか、そんなことは言わなかった・・・そう教えて頂けて、心の底から安心しました。
やっぱりここには自分の居場所があるんだと改めて実感することが出来て、感謝の気持ちしかありませんでした。
この気持が得られたことの価値を考えれば、飲み会の参加費など安いものだと思えましたし、このご縁をきっかけに皆さんに対して私に手伝えることがあればやりたいと思えました。
外へ出て、人と関わる。
それを繰り返すうちに自分の傷も癒えて、再び社会生活が送れる人間に戻れるような気がしました。
JR貨物という大きな会社の中には、未だに私を潰したい人間がきっと居るのだと思います。ですがその人たちにどんな嫌がらせを受けても、私に今の居場所がある限り、心は支えられるように思います。
過去の自分には大勢の敵がいても、今の自分には大勢の仲間がいる。
自分のあり方ひとつで、今の自分を救うことは出来るのだと感じました。
犯罪者というレッテルが貼られた人間に居場所を用意してくれた地域の皆さんのためにも、日々感謝の気持ちを忘れずに過ごさなければと改めて思いました。
思い返せば執行猶予生活が始まった当初である2年前にはよく体調を崩したし、常に鬱っぽい心理状態で、一度3週間の入院を余儀なくされるほど悪化したこともありました。
しかし気づけば体調不良に苛まれる日も少なくなり、精神的な部分でも安定してきたような気がします。
大自然に覆われたこの町で環境に癒やされ、人の優しさに癒やされ、体も十分に休ませたと思います。
もう少し療養すれば、社会生活に復帰出来るのではないかと考えられるようになってきました。
今年は何事もなければ執行猶予が終わる年でもあります。
執行猶予終了と共に社会復帰することを目標に、心身の療養を頑張ろうと思えた・・・そんな素晴らしい飲み会だったのでした。
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