前回の話はこちら。
手術を終えて職場に復帰した私は身体も元気になり、今度こそ乗務が続けられると思うようになりました。
それは体調が良くなったことでメンタルも向上したこともあるでしょうし、手術により痔の痛みから解放されたことや、休業中に十分な睡眠が取れたこともあると思います。
それまで辛いと感じていた乗務がかなり楽に感じられ、自分事ながらこんなにも変わるものかと驚いたものでした。
しかし、それはあくまで一時的な物に過ぎないということも、心のどこかで感じていたのは事実でした。実際、復帰後最初の乗務の折り返し、深夜の仕事では早速寝不足になっていたのですから。
そして、運転士という仕事を続けることに限界を感じるきっかけは、次に医者の所へ診察行った時に得ることとなりました。
手術から2週間後、経過観察のためにクリニックへ行き、先生に診てもらうと同時に痔について気になっていたことを色々と聞いてみました。
すると、先生はおもむろに、このようなことを教えてくれたのでした。
・痔は一度治しても、環境次第であっという間に再発する
・揺れる乗り物に長時間座る仕事をしていたら、そのリスクはかなり高まる
・睡眠不足やストレスは、症状悪化を加速させる大きな要因である
・つまり今の仕事を続けるなら、一生付き合うことになるのは確実
そう言われて、私はショックを受けました。
手術直後で調子が良くなっていたため楽観視していましたが、痔という病気は一度発生してしまったら、身体に再発の癖が付いてしまうようで、生活環境を改善しなければすぐに再発の道を辿ってしまうと聞かされたのです。
先生の言葉は私にとって非常に重く、つまりは今後も運転士を続けるなら、一生痔の痛みを抱えながら生きていかなければならないと宣告されたようなものでした。
私は真剣に考えました。
運転士という仕事は望んで選んだ仕事でもあり、いざこの歳で辞めるとなると未練があるのは事実。
しかし20代で既に身体が悲鳴を上げている中で、無理して長く続ければもっと酷いことになることも見えている。
そしてそんないつ動けなくなるか分からないリスクを抱えたまま働けば、職場にも迷惑が掛かる。
既に一度痔が悪化したことで、職場に迷惑も掛けている。
睡眠不足とストレスが無い状態で、この仕事を続けることはどう考えても不可能。
先生の話を聞いて、考えたことはこんな内容だったと思います。
しかしなかなか答えも出ず、その後も辞めた場合にどうするのかや、逆にどうすれば続けられるのか?など、悶々と考える日々がしばらく続くようになりました。
一生続けると思っていた仕事を、途中で投げ出すか否か。
その答えを出すのは私にとって非常に難しいことでした。考えれば考えるほど色々な考えが頭を巡り、この仕事に就いて良かったことも思い出したし、反対に嫌な思い出も沢山思い出していました。
そして、そんな複雑なメンタルで日々の乗務をこなしていたある日。突然決断の瞬間が訪れます。
それは、自分でも驚くほどに唐突にやってきたのでした。
忘れもしません。その日は長い仕事で、日中に静岡貨物から富士駅へ行き、長時間の入換作業をしてから1091レという列車で静岡貨物に戻り、数時間の休養の後に今度は深夜に静岡貨物から新鶴見を往復するという仕事でした。
職場の運転士みんなが嫌がる長い行路で、実質2往復するので移動のために歩く距離も2倍だし、富士駅まで行くときは旅客列車に便乗しなければならないし、夜も寝る時間は短いし、出勤時刻から見ると夜勤明けも早くはない。
そんな仕事で、更に帰りの列車が遅れているという話を出勤時点で聞かされていました。つまり出勤時点で踏んだり蹴ったりの状態だったのです。
はぁ・・・と深いため息をついて乗務の準備を始め、点呼を終えて電車で富士駅へ向かうために東静岡駅へ向かいました。沼津から1時間半かけて出勤してきた道のりを、制服に着替えて半分以上逆戻りする。この生産性の無さにもうんざりしていました。
移動中も相変わらず痔のことを考えていて、制服を着たまま電車の座席に座りました。電車便乗というのは周りの目線が気になるもので、ある先輩は制服のまま電車の座席に座っていると乗客に通報され、上司に事情聴取を受けたことがあると聞いていました。
同じJRであっても東海の社員ではないし、業務上使用する乗車証も無料ではないらしいので、貨物の運転士が電車に乗っている時はあくまで乗客です。
しかし乗客はそんなの知るよしもなく、JRと書かれた制服を着ていればJRの人間が座席を占領していると思うでしょう。
しかし、会社としても長時間に及ぶ電車便乗を強要している部分もあり、絶対に座席に座るなとまでは言いませんでした。それなのに通報を受ければ守ってもらえるわけでもなく、通報されるとはどのような座り方をしていたのか?と、結局容疑者扱いで事情を聞かれることになるのでした。
またJR東海は便乗の貨物運転士を乗務員室に入れてくれることはなく、仮に入れたとしても東海の電車には助士席が付いていないので、客室に乗るしかないわけです。それなのに座るなというのは、静岡~富士の30分程度ならともかく、3時間以上に及ぶ稲沢や東京方面では無理があります。
JR東日本ではどの運転士さんも乗務員室に快く迎え入れて下さり、東日本の車両は普通列車であってもしっかり助士席があって非常に快適で、かつ新鮮な経験をさせて頂きました。
そんな苦痛の電車便乗を終え、富士駅に留置されていたEF200に乗り込み、入換の準備を始める・・・いつものように淡々と仕事をこなしていきました。
そして19時頃、入換も終わって1091レが組成され、発車を待っている時、今日は出勤してからずっとモヤモヤした気持ちでいることに気付きました。
こんなに不遇続きで喜びのない毎日が、自分の夢が叶った状態だったなんて・・・でも今でも鉄道の仕事が好きなのは変わらないのに・・・
そんなことを押し問答のように延々と考えながら、発車時刻になって列車を発車させました。
暗くなった外を眺めながら、信号の色だけを見続けて黙々と列車を走らせていきます。気付けばもう全然、この仕事に楽しいとか嬉しいとか、プラスの気持ちが芽生えてきませんでした。
乗務中、様々な思いが勝手に浮かんでは消える、そんな状態を繰り返していました。
そして、その瞬間は本当に急に訪れました。
静岡貨物が近くなり、その手前の草薙駅を通過する少し手前。
清水~草薙駅間の第一閉塞信号機を喚呼した瞬間・・・
「よし・・・辞めよう」
それは自分でも驚くほどあっさりと、そして一瞬で決断出来てしまったのでした。
なぜその瞬間に決意出来たのかは今でも分かりません。しかし、その瞬間確かに、何か自分の中で繋がっていた最後の糸が切れたかのように、プッツリとこの仕事に対する未練が消えてしまったのでした。
最後まで張っていた糸が、様々な要素で傷付けられていき、たまたまその瞬間、ついに切れてしまった。そんな感覚だったように感じます。
不思議なことに静岡貨物に到着してからは世界が変わったような感覚になっていて、深夜の乗務までの休養時間は全然眠くならずに、これからどういう身の振り方をするかと、久しぶりにポジティブな方向へ物事を考えるようになっていました。
夕飯も普段なら食べないか、せいぜいカップ麺程度だったのですが、このときは近くにある「はなまるうどん」というお店まで足を運び、山盛りのオクラ入りサラダうどんと、野菜かき揚げにエビ天という豪華な取り合わせでじっくり食事を取ったのでした。
気持ちが吹っ切れて、現状を手放すという決断が出来たとき、人間は次の人生のステージへ進めるのではないかと思います。
このときの私にとっては、運転士を辞めるという決断によって、大きく人生を変えていくきっかけを得たような気持ちになっていたのです。
もっとも、それは犯罪者となり逮捕されて転落していくという、マイナス方向への大きな変化の始まりでもあったわけですが。
運転士を辞めると決断してから、どのような身の振り方をしたのか。その辺は次回書いていきたいと思います。
この話の続きはこちら。
会社を辞めるまでの話を最初から読まれる場合はこちらからどうぞ。
ストーリーを最初から読まれる場合はこちらからどうぞ。
またJR東海は便乗の貨物運転士を乗務員室に入れてくれることはなく、
JR東日本ではどの運転士さんも乗務員室に快く迎え入れて下さり、
お客だけでなく同じ貨物の運転士でも東海の非情さがあるんですね。同じJRでも会社が違うから当然でしょうけど。東海はビジネスライクすぎる(笑)
「よし・・・辞めよう」
それは自分でも驚くほどあっさりと、そして一瞬で決断出来てしまったのでした。
よくわかりますね。悩めば悩むほど意外なところで決断というか、ふっと思い出したように決断できますね
次回作も期待してます
>匿名さん
コメントを頂きありがとうございます。
JR旅客会社ごとの社風の違いは痛いほど肌で感じてきました。乗務エリアの大半がJR東海管内だったことが、この仕事がきつくなった要因の一つであることは間違いありません。東海エリアに乗り入れなくてよい関東支社の機関区で働く運転士が、とても羨ましく思ったものでした。
東京方面への乗務で丹那トンネルを抜けた瞬間、肩の荷が降りたような気持ちを毎回感じていたこともよく覚えています。仕事中も事あるごとに、貨物は東海に嫌われていると感じたものです。それくらい、東海と貨物との関係性には深い闇があったのでしょう。
人間が吹っ切れる瞬間というのは、本当に唐突に出てくるものですよね。悩みが深いほど、本当に唐突です。私がこのブログを実名で書こうと決意したときも、そんな瞬間があったような気がします。
今後ともよろしくお願いいたします。
運転士を目指してJR貨物に入りましたが、先輩や現職の運転士からの話、そして加納さんの実体験を読んで、退職する決意をしました。
世間では憧れの存在で、動免取得や一人立ちまでに多大な努力をしている、そんな運転士を大事にしようという意識の無い会社だということを実感しています。
>名無しさん
このようなブログをお読みくださりありがとうございます。
あなたは現役の社員なのですね。お話の限りでは、まだお若いのでしょうか。若いうちに人生の方向性を決めることはとても大切だと感じております。今の仕事を続けることも、辞めて次の生き方を探すことも、あなたの人生ですから自由に決められます。
JR貨物で勤務されているのであれば、社風については誰よりもお分かりだと思います。そのうえで退職という道を決意されるのでしたら、私も一人の元社員として応援いたします。
あなたの今後の人生がより良いものになりますように。
自動運転が一番必要なのは東日本ではなく貨物かもしれませんね。貨物、深夜、長時間、長距離、往復、運転士はいらない扱い、人件費の割合、赤字体質
特殊な会社ですね
東海の新幹線の自動化はどうでしょう。山手線やゆりかもめとは桁違の速さのため私ならまだ乗りたくないですね。10年20年いや30年後には当たり前になっているかもしれませんが。
>西日本さん
おっしゃる通り、鉄道の中では最も自動運転が必要な仕事だと思います。ただ日によって荷物の重さも貨車の性能も編成の長さも違うのが貨物であり、自動運転化は最も難しいとされているのも事実です。
機関車による運転が取りやめられてSRCのような電車貨物だけになれば現実味もあるのでしょうが、それには莫大な投資が必要ですし、そうなる前にトラック業界の自動運転化の時代がずっと早く来るような気もします。
東海道新幹線は1964年の開業時点で自動運転化が可能だと言われていたようです。ただ、国鉄時代の当時は人員も多かったため、余剰人員が出たら困ると考えた労働組合が声を上げ「特急料金を取る優等列車に乗務員を乗せないのはおかしい」という話になって中止されたんだと、会社に居た頃に大先輩から聞きました。
現代も、その考えを引きずっているのかもしれません。会社が思い切れば、新幹線の自動運転化は山手線より簡単だと思います。
結局、いつの時代も労働組合は会社の発展を妨げるだけなのでしょう。特に現場目線で見ると、自動車業界との格差を比べれば火を見るより明らかです。