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JR貨物 退職の日を決める ~アルバイトの方が好条件?~

前回の話はこちら↓

決心のとき。

 

リサイクル業の職業体験を経て、JR貨物を退職してリサイクル業を学ぶ道を選ぶ決心をしたのが前回までの話です。

 

向こう一年間の生き方について見通しが立ち、今後も自分次第で変えていけると思ったら、この先の人生が非常に楽しみになりました。

 

方向性を決めてしまえば行動に落とし込むことが出来るので、JR貨物をいつ退職するのか?いつから働き始めるのか?・・・そういった具体的な話を考えられるようになりました。

 

これからお世話になるにあたり、社長から提示された労働条件は以下のようなものでした。

 

 

・最低1年間リサイクル業の手伝いをしてもらう

・その期間中にリサイクル業を起業するためのノウハウを教える

・1年後に沼津に帰って起業してもいいし、不安なら引き続き働いてくれていい

・沼津からの定期代は出せないので、静岡の社長の自宅に居候という形で働いてもらう

・社長宅の宿泊費は1日1000円、風呂と夕飯代込み

・給料は日給8000円。つまり一日の実入り7000円

・休みはいつ取ってもいいし、何日休んでもいい

・休みで沼津に帰っている間は宿泊費不要

 

 

この上なく有難い条件でした。

 

 

毎日沼津から電車で1時間以上掛けて通うのはもううんざりでしたから、毎晩泊めてもらえるのは非常に助かりました。そのうえ、一日の仕事を終えた晩餐の時間を共有できるからこそ、色々な話を社長から聞けるのです。

 

社長の自宅とヤードは隣接していましたので、通勤時間はゼロでした。夕方終わってからのんびり過ごしても、しっかり8時間休んで次の日の仕事が出来ます。

 

宿泊費も夕飯代が含まれていてお風呂まで借りられるのですから、無料同然です。6畳の一部屋を間借りさせて頂けて、しっかりプライベートの時間も取れました。

 

日給8000円という金額も、決して安いとは思いませんでした。JRと同じ月24日出勤したとすれば、19万2000円です。運転士の給料が手取り18万1000円で、アルバイトなら労働組合費や互助会など余計な出費が引かれませんから、同じ日数働けば自身の実入りという意味ではほとんど減りません。

 

社会保険がどうこうという話もありますが、自営業の間には組合保険というものがあるらしく、社長は以前市街でホルモン屋を経営していたため、飲食組合健康保険というものに加入していたそうです。これは月々の保険料が1万円以下で、一定の収入があれば国民健康保険よりも安いと言っていました。加納くんも起業したら何かしらの営業許可を取って、そこの組合保険を始めればいいと勧められました。

 

結局、会社員であることのメリットと言われていることなど、自営業でも何らかの代替手段があり、大したメリットではないと思いました。

 

 

安定がどうこうと言われますが、これからの時代、公務員でもなければ会社自体が倒産せずに40年も続く保証だって何もないのですから、だったら自営業も同じです。

もっと言えば公務員だって、国鉄や郵政のように民営化されて居場所を失った元職員も沢山いるのです。そこで民営化時に採用されなかったからと、30年以上経っても騒いでいる労働組合もJRには存在しました。

 

 

そして休みが自由に取れるということも非常に有難いことでした。今までシフトの勤務表に縛られて諦めてきたプライベートで叶えたい様々なことも、これで必ず叶えられると思いました。社長も1ヶ月の半分くらい出てくれれば充分だと言ってくださり、今まで縛られ続けてきた私にとってはまるで夢のような条件でした。

 

 

 

非常に柔軟な対応をしてくれた社長のおかげで、私は退職プランをじっくり考えることができました。

 

会社で総務に確認してみると、私は年休(いわゆる有給のことです)をかなり溜め込んでいることに気付きました。

 

痔の手術でだいぶ休んでしまったので全く残っていないと思っていたのですが、それは保存休という形で、毎年余らせてしまった年休を最大50日まで貯めて非常時にあてがうことができるという制度があったため、手術時の休みはほぼ全て保存休で賄われていました。

 

そのため年休は30日以上残っており、退職までにこれを消化させてもらえることになります。在職中は年休で休んでいたとしても通常の休みはしっかりカウントされるため、結果的に退職まで42日間、年休消化という形の休暇をもらえることが分かりました。

 

この辺りの制度がきっちりしているのはさすが大企業で、私は今日までの6年半の会社員人生で、貯めてきた休みを無駄にせず終われることが純粋に嬉しかったです。

もっとも、これだけ休みが貯まっているのは年休が抽選という形になっていてほぼ取得出来なかったことの裏返しでもあり、それを良かったと言えるかどうかは意見が分かれるかもしれませんが。

 

 

 

私は検討の結果、2015年9月30日をもって、JR貨物を退職することに決めました。

 

 

 

そうすればお盆前の忙しい時期の勤務をこなした上、お盆に入るタイミングか、お盆開けの数回の乗務を行ってから身を引くことができ、あまり職場にも迷惑が掛からないのではないかと思いました。

散々な思いをしてきたにもかかわらず、最後まで職場のことを考えるあたり、完全に会社人間になっていたなと思います。

 

 

退職日を決めたところで、私は課長の所へ話をしにいきました。

 

 

すると、課長は先日部長に怒鳴りつけられたことを未だに気に掛けてくれていたようで、二人で話の場を設けてもらうと私が話す前に話してくれました。

 

 

課長「加納くん、体調は大丈夫か?部長はきっと考えてくれるからさ、それまであんまり無理せず、続けてほしい。」

 

課長「それからさ、俺稲沢駅の助役に転勤になったんだよ。後のことは次の課長に伝えておくから・・・頑張ってな。」

 

私は課長の心遣いをとても嬉しく思いました。

 

課長から助役に転勤ということは、社内では降格扱いだったのでしょう。当時の課長はとても人格者で、誤解を恐れずに言えば「人の心を持った上司」でした。

 

そういう人間が立場を追われ、血も涙もないような人間が上にのし上がっていくのは、JR貨物に限らずどの会社も同じなのでしょうか。

 

きっと、人の心を持っている人だからこそ、下の人間を踏みつけてのし上がることが出来ず、上と下に挟まれた立場に追い詰められてしまい、降格を余儀なくされたのだと思います。

 

私は答えました。

 

私「お気遣いありがとうございます。でも、僕は9月一杯で会社を辞めることに決めました。」

 

課長「えっ!?そうなのか・・・もう決めたの?」

 

私「はい、本当に悩みましたがもう決めました。なので今日は退職願の書類を頂きたくてお声掛けさせて頂いたのですが」

 

課長「そうかぁ・・・」

 

課長「・・・」

 

課長「・・・分かったよ、印刷してくるからちょっと待っててな。」

 

課長はおもむろに席に戻り、退職願を印刷してきてくれました。

 

私「ありがとうございます。今まで度々お付き合い頂いて、ありがとうございました。課長もやっと稲沢に帰れるのですね、どうか今後はストレスから解放されますように」

 

課長「ありがとう、家も近くなるし、ちょっとは楽になりそうだよ。加納くんのことは次の課長に引き継いでおくから。加納くんもこれから先、頑張ってな。」

 

そんな短い会話を交わし、私は退職願の書類を受け取りました。

 

後から知ったことですが、別に直々に現場長から貰わなくても、ここ10年くらいで入社した社員であれば、全員に配られる就業規則の冊子の中に退職願のページが入っており、そこをコピーすれば自分で用意することも出来ました。現場長から退職願をもらうというのは人によっては心理的な抵抗があるかもしれませんし、全員に配られる冊子に収録されているのは有難いことです。

この日の数日後、課長は静岡の職場を去り、代わりに新しい課長がやってきました。以前の課長よりも若い印象の人でした。

 

このタイミングで課長が替わってしまったことで、話を最初からやり直さないといけないのは少々面倒でしたが、それは仕方ないことです。課長が新しい職場で元気に過ごされることを願ってやみませんでした。

 

 

そして、私は次の乗務の合間に、新しい課長に再び話をすることとなりました。

 

次回に続きます。

 

 

この話の続きはこちら。

終わらない揉め事 ~そんな話は聞いていない~

 

 

会社を辞めるまでの話を最初から読まれる場合はこちらからどうぞ。

一生働くつもりで入った会社を辞めるまで① ~時限爆弾が爆発する~

 

ストーリーを最初から読まれる場合はこちらからどうぞ。

鉄道会社で働くことへの憧れ ~将来の夢にどんな絵を描いたか?~

 

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