閉じる

あと1ヶ月。運転席からの眺め

前回の続きはこちら↓

最後の乗務までの日々 ~日常が輝き始める~

退職日を決めてから最後の乗務まで。

 

その時間は、それまで続いた退屈な5年間と何も変わらない景色を見えているはずなのに、不思議と違ったものに見えていました。

 

見習いとしてハンドルを握った時もそれは新鮮な感覚でしたが、当時は仕事を覚えるのに必死で、悠長に景色を眺めている余裕などありませんでした。

 

しかし5年間もやればさすがに余裕も生まれていて、安全に列車を動かしながらも周囲の景色に目を配るくらいのことは出来ました。

 

 

たった5年の間でも、乗務していた東海道本線の景色は変わりました。

 

途中に駅が出来て、その駅を中心に街が発展していったり、沿線に新しい建物が建ったり、すれ違う電車が変わったり。少しずつ変わっていく世の中を肌で感じられる仕事だったかもしれません。

 

沿線に価格表示のよく見えるガソリンスタンドがあり、通る度にそこの価格を気にしていたこと。

 

デジタル表示の温度計があり、その日の気温は通る度に何故かチェックしていたこと。

 

線路際にあるスクラップ工場に落ちている、古い車に興味を惹かれていたこと。

 

そんな何気ない出来事が、今でも鮮明に蘇ります。

 

 

機関車のハンドルを握ること自体も、もう沢山と感じる一方で、二度と握ることはなくなると思うと名残惜しい部分はありました。

 

私が退職する頃には国鉄型の機関車に乗れる機会はかなり減っていて、EF65、EF66-0番台などは、月に1回乗れるかどうかというくらい少なくなっていました。

それでも退職願を提出してから最後の乗務までの間に、それぞれ1回ずつは運転する機会に恵まれ、今でもとても良い思い出として残っています。

 

機関車の形式それぞれに乗り心地や特性に違いがあり、同じ形式でも番台によって異なったりと、機械好きの人間にとって機関車は非常に面白い物でした。

 

非力なEF65からパワーを絞り出して速いダイヤに乗せるのも楽しいし、EF66-27号機の国鉄時代から変わらない緑色の運転席から東海道の景色を眺めると、まるで自分が国鉄時代の寝台特急の機関士にでもなったかのような錯覚を覚え、それはそれは豊かな気持ちになれました。

 

通勤時間帯の名古屋駅を通過するとき、汽笛を吹くとホームに溢れていた乗客がサーッと黄色い線の内側に入るのが見えたこと。

 

東京方面へ行くとき、列車が遅れて日中に小田原~鶴見間の東海道旅客線を走ることになったとき、まるで九州からやってきた東京行き寝台特急のように、機関車の運転席から横浜駅に進入する景色を眺められたこと。

 

9割以上は退屈な時間であっても、極まれにそういう束の間の幸せを感じることが出来たのは、この仕事をやって良かったと思えることの一つだと思います。

 

 

しかし体調が優れなかったり、眠くて仕方のない時に運転に手間の掛かる国鉄型車両が来てしまうと、その時は逆に不運だと感じたのも事実です。

 

EF65・EF66はは運転席が固く、背もたれも倒れないので楽な体勢が取れませんでした。

 

また、中には空調の効きが悪かったり、そもそも付いていない機関車もありました。夏場にそういう車両に当たってしまったら地獄としか言いようがありません。

 

EF65は冷房が弱いか付いておらず、逆に暖房は強弱の切り替えがなく暑すぎて、お世辞にも快適な機関車とは言えませんでした。

 

EF66-0番台は吹き出し口が調整できず冷房が右肩に吹き付けてくるため寒く、逆に助士席には一切吹かないため暑い。

 

EF66-100番台は反対に助士席側に冷房があって助士席が寒くて仕方ない。また暖房が弱くて冬場の助士席はやはり地獄で、便乗で当たると最悪でした。

 

EF64は暖房はバランスが良かったものの、冷房はトラクターからの流用品とかで、壊れていることは滅多にないもののあまり効きませんでした。

 

EF200は冷房がほぼ死んでいて灼熱状態、暖房はヒーターがなく風が出るだけのもので車内が全く暖まらず、夏も冬も最悪で、車内の騒音も酷くて最も乗りたくない機関車でした。

 

EF210はいずれのバランスも良くて快適でしたが、何故か冷房がカビ臭い車両が多く、助士席に背もたれ以外寄りかかれる場所が無かったため、やはり便乗はしんどい車両でした。

 

 

結局、乗務員にとって完璧な機関車というものは私の乗れた車種の中には1両もなく、そのような中で列車の運転を純粋に楽しめるのは様々な好条件が上手く整った瞬間だけであり、残念ながらそのような機会は滅多に訪れませんでした。私には縁の無かった交流機やH型機、ディーゼル機関車はどうなのでしょうね。

 

運転席からの眺めというのは、別に一般の乗客として電車の運転席の後ろにかぶりつけばいつでも見られるものですから、もう見れなくなるという名残惜しさはありませんでした。

 

貨物列車しか走らない区間というものも確かに存在しますが、トンネル区間や旅客線と並行する区間が中心でそこまで新鮮なものでもありません。

 

時刻表に従って走る鉄道は運転自体にそこまで自由度があるわけでもなく、近年は保安装置の充実によって人間の技術に頼る部分も少なくなっていますから、『鉄道の運転=楽しい』と思ってこの仕事を目指すと、ひどく後悔することになるかもしれません。

 

 

退職を決めてから1ヶ月を切った頃、当時見習いだった運転士が訓練の最終段階として、師匠以外の運転士のところに乗ってくる期間があり、私のところに乗ってくるという場面がありました。

 

そこで本来自分が運転するところを見習いがハンドルを借りて列車を運転するわけですが、彼を見ていると自分もたった4~5年前にはその立場だったにもかかわらず、妙に初々しさを感じて、まるで自分が定年退職直前の年寄りでもなったかのような錯覚を覚えました。

 

あと1ヶ月で職場を去る人間と、これから何十年に亘ってこの仕事でやっていくつもりの若者。

 

同じ景色を見ていても、見え方が同じはずがありません。

 

 

途中、横浜羽沢駅で入換作業があり、彼の運転を見ていたのですが、非常にゆっくりとした運転で想定外に時間が掛かっていました。

 

彼が思うようにいかないと言っていたため、途中でハンドルを預かって私が運転して見せたのですが、後輩にいいところを見せようと調子に乗ったせいで肝心の連結場面で予定より強く当たってしまって、妙に気まずい思いをしたことをよく覚えています。テンパってとっさに「あ・・・見習いと一緒ですいません!」などと、駅員に対してまるで見習いの彼が悪いかのような言い方をしてしまったことは、今でも後悔しております。

 

彼がこのブログを読んでいるとしたら、この場を借りてお詫びしますね。あの時はごめんなさい。

 

 

そんなハプニングもありつつ、特に問題を起こすこともなく最後の乗務に向けて勤務を進めていくことが出来ました。

 

終わりが決まってしまうと慣れきった仕事に新鮮さを感じることができるようになり、退職を決めてからの1ヶ月半は、私の運転士生命の中で最も楽しい時間だったかもしれません。

 

 

そして8月に入り、お盆休みを迎える直前の8月12日出勤~13日明けという仕事が、私にとって最後の乗務の日に決まりました。

 

次回に続きます。

 

 

この話の続きはこちら。

破滅への会話 ~同僚の悩み~

 

 

会社を辞めるまでの話を最初から読まれる場合はこちらからどうぞ。

一生働くつもりで入った会社を辞めるまで① ~時限爆弾が爆発する~

 

ストーリーを最初から読まれる場合はこちらからどうぞ。

鉄道会社で働くことへの憧れ ~将来の夢にどんな絵を描いたか?~

 

あと1ヶ月。運転席からの眺め」に2件のコメントがあります

コメントを残す

あなたのメールアドレスは公開されません。

© 2024 運転席と塀の中 | WordPress Theme: Annina Free by CrestaProject.