前回の話はこちら。
突然痔が爆発した私は、病院で満足な治療も受けずに座薬を渡されて帰りました。
数日間の病欠の後、座薬と丸座布団を持って仕事へ復帰することになりました。職場の方々は心配してくれる人もいましたが、痔という病気の性質か、少しからかうような顔で声をかけてくる人もいました。
このときの私はだいぶメンタルに余裕が無くなっていて、そういう人に対してあまり気の利いた返事は出来なかったような気がします。
それからしばらくの間、座布団を持ち歩く生活を続けました。通勤でバイクに乗るときもシートの下に敷き、電車に乗るときも座席の上に座布団を敷いて通いました。
一度、夜の出勤時に電車の座席に座布団を置いたまま降りてしまったことがあり、その時は絶望したものでした。
しかし翌朝にJR東海の忘れ物窓口へ電話してみると、奇跡的なことにその座布団は座席に載せられたまま浜松まで行き、折り返しでも回収されずに静岡の車両所へ帰ってきていました。
座布団無しで不安一杯の乗務を終えた後、真っ先に静岡駅へ取りに行ったのを覚えています。
このときの私は睡眠時無呼吸症候群も発症していて、無呼吸の治療器具、座薬、座布団と、壊れ始めた身体で仕事を続けるために様々なアイテムを持ち歩くようになっていて、乗務へ行く時の荷物も人一倍多くなっていました。元々乗務カバンには携帯を義務付けられた滅多に開くことのない規程類の書かれた冊子が山盛り入っていて、荷物の重さは10kgを優に超えていたと思います。
そのような対処療法で仕事を続けているうちに身体も慣れてきて、痔に気を遣うことで症状も治まっていたため、いつしか自分は、座布団と座薬を持っていれば仕事は続けられると思い始めていました。
しかし、現実はそんなに甘くありませんでした。
ある日、深夜に出勤して静岡から稲沢へ乗務し、折り返し日中にEF200牽引による西浜松までの列車を乗務している時、突然痔が痛み始めてしまいました。まだ寒さの残る3月か4月くらいのことだったと思います。
脂汗のにじむような痛みに耐えながらなんとか列車を西浜松まで走らせ、機関車を留置することは出来たものの、激痛がピークに達していて留置後の機関車の車内で独り、しばらくうずくまっていました。
西浜松駅では機関車を下り線の端っこに留置し、上り線の端っこにある詰所まで歩かないといけないのですが、とてもそれどころではありませんでした。
しかし詰所では決まった時間に静岡の職場へ電話して点呼を取らなければなりません。とても点呼時間に間に合いそうに無かったため、業務用携帯電話の電源を入れて当直へ電話し、現在の状況を伝えました。
静岡へ帰る便乗列車までは1時間くらいあったものの、間に合わせるのは厳しそうなのでその後の列車に振り替えて欲しいとお願いをし、痛みが引くまでしばらく休ませてもらうことにしました。
機関車の中では横になれないので、なんとか列車を降り、地面に横たわるような体勢で車輪に手歯止めを掛けて、半歩ずつくらいのペースで近くにあった下りの休憩小屋へ逃げ込みました。
休憩小屋は畳敷きになっていて、横になって休むことができました。その時の私には、横になれるという環境が天国に感じられるほどでした。
トイレへ行くと案の定出血していて、下着にも少し血が付いてしまっていました。これがもし自宅での爆発のような出血だったらと思うと、とても恐ろしくなりました。
トイレで座薬を塗り、結局2時間近く横になったでしょうか。少し楽になったので起き上がり、再び当直へ電話して1本遅らせてもらった列車に便乗して帰ることにしました。
貨物列車の便乗というのは、乗務を行わない運転士が移動する際に反対側の運転席に乗ることを言います。
列車によっては複数人の運転士の便乗が重なることがあり、複数人で乗る場合は先輩にあたる人間が運転席に座り、後輩が硬い助士席に座るという暗黙の了解があります。
私の乗った便乗列車にも先輩が乗っていましたが、事情を察して運転席を譲ってくれました。先輩がいるのに運転席に座って便乗したのは、これが最初で最後だったように思います。
静岡貨物に到着すると職場の上司が車で降車箇所まで迎えに来てくれていて、いつもなら10kgの荷物を背負って20分間も歩いていた道のりを、車に乗ってあっという間に移動することが出来ました。
このときばかりはさすがに職場の先輩方も真剣に心配して下さり、私は各方面へ迷惑を掛けて非常に申し訳ない気持ちと同時に、こんな身体になってしまったことに対して非常に悔しい気持ちになりました。
このとき、しっかり痔を直そうと決意が固まったのだと思います。
翌日が休みだったか、仕事を空けてもらったかは覚えていないのですが、今度は専門医のところで直そうと思い、沼津市内にある肛門科の開業医を探しました。
すると自宅から車で15分くらいのところに「五十嵐クリニック」という痔治療に強い先生がいることが分かり、そこで診察を受けることに決めました。
最初に行った総合病院と違って待ち時間も短く、設備も綺麗でとても好印象でした。あと、受付嬢の制服がやけに綺麗で、先生の趣味なのかな?と思った記憶があります。
先生は開業医としてはお若い方だった気がします。ジオン注射という、痔を切らずに治す手術を心得ている先生で、痔は切らないと治らないし、切っても再発すると聞いていた私にとっては神の救いのように感じました。
診察して頂くと、内痔核という肛門内部に出来た痔が、腫れ上がることで肛門の外に出てきてしまい、それが肛門に挟まれることでうっ血し、破裂したものであると教えてくれました。
時折起こる激痛というのは、その痔核が肛門に挟まった時に生じていたのです。
つまりこの痔核を小さくすれば、肛門に挟まることもなくなり出血も無くなると説明され、手術でも薬治療でもいいがしっかり治したいなら手術の方がいいと言われて、私はその場で手術を決意したのでした。
その場で手術の日程を決め、会社に事情を説明してしばらく休業させてもらうことにしました。このとき既に仕事に対するモチベーションは低下していたものの、この時点ではまだ会社を辞めることまでは考えていませんでした。
そして予定通り手術を受ける日がやってきて、生まれて初めて手術台の上に乗りました。
一般的な手術と違い、仰向けではなくうつ伏せに寝た状態で手術を受けたことが印象に残っています。
そして手術台が動いて後ろにお尻を突き出した体勢のまま、手術用の服がめくられて女性の看護士3~4人の前でケツ丸出しという、顔から火が出るほど恥ずかしい状態の中で手術が開始されました。
幸いだったのは、この手術には全身麻酔を使用することになっていたことです。
超絶恥ずかしい体勢となってすぐに、左腕に注射針が刺されて全身麻酔のパイプが繋がれました。看護士が麻酔の入った注射器で注入を行うと、麻酔薬が全て注射し終わるのを待たずに一瞬で意識が無くなりました。そして手術中の記憶が一切無いまま、気付いたらカーテンで仕切られたベッドの上で仰向けに寝ている状態で目覚めたのです。
つまり、女性の前でケツ丸出しのまま何時間も過ごすという堪えがたい恥辱を味わうことなく無事に手術を終えられたわけで、このときほど「知らない方が幸せなこともある」と実感したことはありません。
術後は若干肛門付近に違和感はあったものの、痛みはすっかり消えていました。常に身体の奥にあった鈍い痛みが消え、身体が昔の自分に戻ったような気がしました。
目覚めてからさらに1時間ほど安静にした後、家族に迎えに来てもらって家へ帰りました。
身体が痛みを感じない楽な状態というのを久しぶりに経験したことと、1週間以上の休業で十分な睡眠時間が取れたこともあってか体調は非常に良くなり、健康な状態とはこんなにも楽なものなのかと、このとき健康体でいることの有り難みを深く実感しました。
そして意外なところで驚いたのが、お通じの良さでした。
それまで痔という物体によって塞がれていた肛門の通路が、痔が消えたことで通りが良くなったようです。
心身が連動しているというのは本当で、身体の痛みが消えたことで気持ちも少し上向きになったように思います。
こうして無事に手術も終わり、今後も丸座布団を使って乗務すれば仕事自体は続けられるかもしれないと思っていた私ですが、そう都合よくは行かないのが現実です。
またしても試練が降りかかり、とうとう退職を決意することになります。
その話はまた次回に。
この話の続きはこちら。
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おもしろかった
次回作も期待しています
>西日本さん
ありがとうございます。間延びしてしまわないよう、出来るだけまとめて話を進めたいと思っております。