前回の話はこちら。
今思えば、内定を貰ってからJR貨物に入社するまでの約半年間は、私の人生で最も輝いていた時期だと感じます。
長年の夢が叶って憧れの鉄道会社で働くことが決まり、気分は有頂天。しかもあとは自由な学生生活をまっとうするのみ。
将来が約束されて何の不安もなく学生の日々を謳歌できるという環境の中では、常に満たされた気持ちになっていられました。こんなに幸せな気持ちで日々を過ごせた時期は、後にも先にもこの期間しかありませんでした。
卒業までに自動車整備士の資格取得に向けた勉強は必要ですが、受験のように誰かが落とされる試験ではなく、一定以上の点数を取れば誰でも合格できるので、追い込まれるようなことはありませんでした。
私がJRに入ることを知った同級生からは、必ずといっていいほど以下の2通りの反応が返ってきました。
「なんでこの学校入ったの?」
「もう整備士の資格いらなくね?」
私たちの授業を持ったこのとない学校の先生にも顔を覚えられ、
「JR行く人って加納君だよね?」
と聞かれることも多々ありました。
自動車短大からJRという進路は、それくらい異例なものでした。
しかしちょうどこの時期に世界的恐慌の引き金となるリーマンショックが発生し、テレビでは全国各地の会社で内定取り消しが相次いでいると報道されるようになりました。
JR貨物も東海支社だけで入社同期が50人も居たので、その影響を受けるのではないかと懸念されました。
そうなれば取り消しの順番はまず社会人の転職組、そして四大、専門卒になるだろうと予想していたので、私も正直不安に感じました。
ですが結果的にJR貨物では内定取り消しは起こらず、全員が無事に採用されています。この辺りはさすが大企業だと感じたのを覚えています。
学生時代の最後は、進路の決まった友達ととにかく遊び倒しました。
自分で組み立てたエンジンを積んだバイクに乗って、岐阜から雪の積もった長野の霧ヶ峰へ日帰りでツーリングしたり、FR車に乗っている人に夜の峠道へ連れて行ってもらってドリフト走行して遊んだり、近くに住んでいる友達の家でバーベキューをしながら明け方まで飲み会したり・・・
まだまだ若かったからこそ出来た無謀な遊びも沢山経験しました。
卒業前の最後の想い出作りをしようとみんな積極的に遊んでいたし、車やバイクという共通のオモチャを持っている仲間に囲まれて過ごす時間は本当に充実していました。
早くJRで働きたいという思いと、学生の楽しい時間が長く続いて欲しいという思い。
相反する気持ちが交錯しましたが、どちらに転んでも自分の願ったりの結果ですから寂しさを感じることはなく、とにかく毎日が楽しかったというのが率直な感想です。
短大の2年間というのは本当にあっという間でした。
卒業の季節がやってきて、卒業式を終えたら休む間もなく静岡県沼津の実家へ帰る準備をしなければなりません。
2年間で色々と家財も増え、車もバイクもあります。
引っ越しには結局2往復が必要でしたが、お金を節約するためレンタカーは24時間しか借りず、高速代も節約して下道で往復600キロの日帰りをこなしたりと、無いお金を体力で補うのは相変わらずでした。
仲良しの友達は自分の引っ越しでも忙しい中で手伝ってくれたし、最後に一緒にご飯を食べに行ったりしてくれました。
本当に別れが惜しい仲間で、後ろ髪を引かれる思いで2年間を過ごした岐阜県を後にしました。
実家に帰れば、いよいよJR貨物への入社が近くなってきます。
ところが入社説明会の案内が届くと、急きょ会場が変更になっていました。リーマンショックの影響なのか、何やら不穏な空気が・・・
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