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年末年始を過ごして思ったこと~居場所のない故郷~

年が明けましたね。気付けば前回の更新から1ヵ月以上経っていることに気付きました。

空虚な時間というのは、過ぎ去ってみるとあっという間です。

以前どこかの記事で書いた時間感覚の話のように、実りのない人生というのは先を見ると途方もなく長く感じ、振り返ってみるとあっという間で何も残っていないのです。

逮捕され、釈放され、裁判で有罪判決を受け、地元を離れてから1年くらいの間は目まぐるしい環境の変化で、その期間を振り返ってみると実に多くの経験をした記憶が残っています。

しかし、この生産性のない生活のサイクルが安定してくると、何をするわけでもなく、気付けば時間ばかりが過ぎているようになっていました。

この年末年始は、久しぶりに沼津の実家に帰ることにしました。

家族はこんな私でも受け入れてはくれますが、私がそこで生活していた頃の痕跡は徐々に消えつつありました。

私が実家を出た段階で私物の大半は持ち出していましたが、それから更に2年も経つと家の雰囲気も何かと変わるものです。

かつて生活していた部屋には私の使っていた物はベッド以外ほぼ残っておらず、物置と化しています。あとは古い鉄道誌が数冊、ホコリを被って落ちていました。東海道本線にE231系導入・・・いつの時代だ?

そういえばこの部屋も、私が留置場に居る間に家宅捜索に入られたんだっけ・・・。

 

窓際には伏せられた写真立て。起こしてみると、それは私が退職する時、花束を送ってくれた入社同期たちと一緒に撮影した記念写真でした。

そこに写っている3年前の自分・・・表情は笑顔でしたが、目の下にはくっきりとクマが付いてしまい、疲れが隠しきれない顔になっていました。

「6年間お疲れ様でした。新しいステージでも活躍することを祈っています。」

写真立てには、同期の誰かが書いてくれた、そんなメッセージカードが挟まっていました。彼らの期待を完全に裏切ってしまったこの現実を見ると、胸が痛くなりました。彼らにはもう、一生合わせる顔がありません。

沼津を離れる時に大事にしていた車を売り、その車を置いていた車庫の中は家族の洗濯物干し場になっていました。もうこの車庫で車を弄ることも無いでしょう。

実家を出てから2年。この車がお嫁に出た代わりに入ってきたお金も、既に生活費として蒸発してしまいました。

よくバイクを弄っていた作業場からも自分のバイクは無くなり、家族の原付と、私が帰省時の足にと1台だけ残したスーパーカブがカバーを被って置かれています。油まみれだった工具も、今ではホコリまみれ。

そんな実家の光景を見て、もうここは私の居る場所ではないのだということを悟りました。生まれ育った家から、私の居た証がまもなく消えようとしています。

 

帰ったからといってやることもなく、迷惑をかけた家族へのせめてもの償いにと実家の大掃除を引き受け、終わったら早々に自宅へ帰りました。

今回の帰省を受けて、私は自宅に引きこもっていることに対して完全に安心感を覚えてしまっていることに気付きました。

いいえ、自宅というより、この町にいることに安心感を覚えているのかもしれません。

痛ましい記憶のせいなのでしょうか、沼津に居るとどこか落ち着かなくて、気が休まらないのです。

今まで年始をこんなに静かに過ごしたことはありませんでした。住所を移してから新住所は過去の知り合いには1人を除き伝えておらず、郵便局の転居届も既に期限切れになって1年が経つので、年賀状の到着も見事にゼロ。広告目的の年賀状すら届きませんでした。

そういえば私が最後に誰かに向けて書いた年賀状には、貨物の運転士として最後に乗務した列車の前で同僚に撮ってもらった写真を印刷した記憶があります。

どんなに辛い仕事でも、最後のひと仕事というのは特別な気持ちでした。まるでさよなら運転の列車を運転しているかのような、そんな名残惜しい気持ちでハンドルを握っていたことを覚えています。

あのハンドルを手放した日から、私の中で張っていた何かが切れてしまったのでしょうか。

当時のことを思い出すと、体を引きずってでも、死んだ目をしながら日々運転士としての仕事を続けていれば、少なくとも犯罪者にはならなかったのではないかという思いがよぎります。

でも不思議なことに、その方が良かったという気持ちは芽生えてこないのです。

最後の方の私は、たとえ正社員で社会的立場があったとしても、それを維持したいと思わないくらい自分の人生に生きがいを失っていたのだと思います。

だったら犯罪者として今こうして何もせず生きていることが良かったのか?

必ずしもそれが良いとも思ってはいません。結局のところ、私にはどちらへ転んでも最悪の結末しか用意されていなかったということなのだと思います。

そうなれば、どっちの最悪の方がマシだったのかという部分で考えるしかありません。

退職した3年前、既に私は体を壊して体調がおかしくなっていました。そのままサラリーマンを続けていれば、当時の体感では40歳を待たずに死ぬかもしれないという予感がしていたのをよく覚えています。

鉄道従事者は30~40代の若いうちに突然死するケースが後を絶たないようですが、自分もそれに該当していた可能性は大いにあったと思います。

一方、今のように寝たくなったら寝て、目が覚めるまで眠り、お腹が減ったら何か食べ、トイレに行きたくなったらすぐに行く。・・・運転士の生活と比べれば天地がひっくり返ったくらい、こんなに本能に忠実な生活をしていたら、気でも振れない限り間違いなく40歳で寿命を迎えることはないでしょう。

そう考えると、命だけは取られずに済んだという意味では、今の方がマシだと言えるのかもしれません。

どんなに悔やんでも過去は戻りません。そして1回の人生、どんな生き方をしてきても、どんなに必死でお金を稼いでも、死ねばそこで終わり。墓場までお金は持って行けないし、沢山稼いでも心や体を壊したら医療費で水の泡。

間違っていたと気付いても人生のリセットボタンはないのです。

だったら、40歳で終わる予定だった人生のルートから外れ、犯罪者というハンデを背負わされながらもそれ以上長く生きられる道を与えられたのですから、それを有意義に使おうと思うことが今の私にとって最も建設的で、前向きな生き方なのだろうと思います。

20代の若いエネルギーを使い切り、6年間命を削って働いてきたのです。その反動で6年間働けなくたって仕方ない。

それくらいの気持ちでいれば、メンタル面で沈んでいくことも防げるのかもしれません。

 

話は変わりますが、私は20代の頃、スーパーカブに乗って北海道を一周したいという夢がありました。

読者の方の多くは、バイクで北海道一周なんて、大勢の人がやっていて夢でも何でもないと思うことでしょう。

それはそうでしょう。その夢を叶えるのに必要な物は、10万円も出せばお釣りが来る中古のスーパーカブと、15~20万円程度の旅費、そして自分の着替えくらいなものです。

サラリーマンをやっている独身者にとって、合計30万円の自由なお金を用意するのはどれくらい難しいことでしょうか?

恐らく半年もせずに用意出来てしまう金額だと思います。

そのお金を使って、ただ日本の道路を原付バイクで走るだけ。

こんな単純明快なことを、何故夢と言わなければならなかったのか?

それは「時間」という、大きな壁があったからです。

北海道沿岸部を一筆書きで一周すると、約3000キロの距離があります。原付のペースなので、1日300キロを稼げたとしても、1周するには10日間必要になります。さらに往路、復路を本州からフェリーで連絡すれば、前後に2日間ずつは必要で、最低でも2週間のスケジュールは必要になります。

この連続した14日間という自由時間を、サラリーマンという立場で得ることがどれほど難しいことか、会社にお勤めの方は誰でもご存知でしょう。

少なくとも、私の勤めていた会社では夢のまた夢でした。

では、1回しかない人生でこの夢を実現させるにはどうすればよかったのでしょうか。

1つは、学生時代のうちに行くという方法です。

10代のうちにこれを思いついていれば良かったのですがあいにく思いつかず、仮に思い付いたとしても貧乏学生に20万円の旅費は到底工面できなかったと思われ、実現していた可能性は低いでしょう。

2つめは、定年退職してから行くという方法です。

65歳か70歳くらいになって会社を定年退職したら、その後の自由時間で行ってしまうという方法です。当時の私には、もうこれしかないと思っていました。

しかし、このプランにもいくつか問題点があります。

まず、そもそも今の仕事をしながら、その年齢まで死なずに生きていられるかということ。

次に、その年齢まで生きられたとして、その歳になってからバイクで2週間も走り続ける体力が残っているかということ。

そして、40年後に見る北海道は、今この瞬間に見られる北海道の景色とは大きく異なっているだろうということです。

3つめは、社会人として許されないやり方で行くという方法です。

要するにズル休みをしてしまうということですが、10代のうちの学校やらバイトならともかく、正社員で20代後半にもなってやることではありません。

仮に強行して休めば行けるかもしれませんが、何かあってバレればおおごとです。そして、よほど肝の据わった人でなければ、バレたらどうしようという不安感で心の底から旅を楽しむことは出来ないでしょう。

 

このような事情から、サラリーマン時代の私はある時、自分の人生は長い一生のうちたった14日間を使って原付で日本の道路を走るという単純な夢さえ一生叶わない、あわよくば叶ったとしても40年待たなければならないような人生なのかと思って、急に虚しさを覚えるようになりました。

将来の夢でもあり、一生やりたいと思っていた鉄道運転士の仕事。

それが叶っている状態だというのに、心の中は何も満たされていない。むしろそれ以外のことを自由にやることは何一つ許されていないのではないかとさえ思いました。

今思えば、そんな人生は嫌だと思うようになってから、急に体にもガタが出てきたような気がします。

結果的にそこで体が音を上げてくれたおかげで、私は一生勤めたいと思って始めた仕事を辞める決心がつき、一命を取り留めたのだと思います。

この小さな夢が無かったら、私は今でも同じ仕事を続け、あと数年の命を日々削っていたのかもしれません。

 

それに引き換え今の私は、その気になれば明日にだって旅に出れるような環境にいるわけです。

お金はあまり残っていないけれど、その気になれば30万円くらいならすぐにでも使ってしまうことは出来るでしょう。いいえ、実家にあるスーパーカブを使えば20万円で行けます。

当時は思いつかなかった、第4の方法。会社を辞めて行くという方法を取る選択肢が与えられたのです。

そう考えると、実は今の自分の人生はとても幸せなのかもしれないと思えます。

立場のある仕事に就いていることでも、沢山お金があることでもない。

ただ自分の生き方に選択肢があり、そして今こうして健康に生きていること。


それが最も幸せな人生なのではないかと。

そんな思考にふけりつつ、結局ただ時間を消費した年末年始となりました・・・。

 

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年末年始を過ごして思ったこと~居場所のない故郷~」に5件のコメントがあります

  1. 辞めた会社を実名出して随分悪く言いますね。
    そりゃ何千人という運転士がいればあなたのように性に合わない人もいるでしょう。
    特殊な仕事ですから。
    私は貨物列車の運転士という仕事に誇りを持ってますし、辞めたいとか他の仕事が羨ましいとか思ったことはありません。
    あなたが一方的に書かれているような、過酷で、命を削るような仕事なら沢山の方々が運転士を辞めて他の職種へと進みたがるでしょう。
    でも、そんな運転士はほとんどいないのはご存知ですよね?
    現職の運転士として「まだそんな仕事続けてんの?馬鹿みたい」と言われているようで不愉快です。
    読むなと言われればそこまでですが。

    稲沢機関区でしたっけ?
    稲機の事情は知りませんが、うちでは14日間でも休もうと思えば休めますよ?人員不足ですけど。
    誰々がバイクで北海道一周したいから休みたいってよ、なんて話があればちょっとした勤務変更だって喜んで受け付けますし指導だって協力してくれます。

    あなたが知ってるのが貨物会社の全てではないんですよ。

  2. >>1 現職運転士さん

    このようなブログをお読みになり、コメントを下さりありがとうございます。

    そうですか、貴方の職場はそんなにも恵まれているのですね。読ませて頂いて、まるで他社のことを言っているのではないかと思いました。
    同じ会社でも北海道から九州まで。地域が違えば職場環境も、人の温かさも違うのですね。

    私は北海道行きを諦めた後、戦争を経験した祖父に真珠湾を見せてあげたいという理由で、1週間、いや5日間でいいから休みを下さいとお願いしました。しかし加納くんだけに認めると不公平になるからと、全く取り合ってもらえませんでした。年休申込みもくじ引きの抽選方式。こちらはそのような環境だったのですよ。

    私のいた職場は、一時期全社において離職率トップになった職場でもありました。過酷で命を削るような仕事なのは確かで、離職しないのは家族や住宅ローン、自分の年齢も考えると身動きが取れないから・・・という先輩方が多かったですよ。皆さん10年若ければ辞めていたと仰っていました。あとは離職せずとも、他職に移って運転士を離れたりというケースはとても多かったです。
    身動きの取れる若い人は、少しずつ居なくなっていきました。それから3年以上経ち、今はどうか知りませんが。

    私も貴方の職場のような恵まれた場所で働く機会を与えられていたら、きっと今も誇りを持って、日々乗務に励んでいただろうと思います。逆に貴方の仕事がとても羨ましく思います。

    中研という同じ場所に一度は集った私たちですが、その後の生き方は貴方と私の、掴んだ運の差なのかもしれません。

    (以下続く)

  3. >>1 現職運転士さん

    (以下続き)

    私も本当はこんなブログなんか書きたくなかったし、自分の罪を背負って静かに再出発しようとしていたところでした。

    過去の記事に書きましたが、そんな矢先、貴方の勤めている会社の関係者の誰かが、私を再び吊るし上げて潰そうとしてきたのですよ。

    どこへ逃げ続けても、その人間に察知されたら何度でも潰されてしまう。

    だから、こんな書きたくもないブログを書いて自ら自分の過去とその経験を世間に打ち明けるしか、私が再出発する道は残されていないんですよ。貴方が私と同じように、実名で自分の過去の汚点を不特定多数に公開することになったらどんな気持ちですか?進んでこんなこと出来るわけがないでしょう。

    会社名を出すことだって、本当はそんな失礼なことしたくありませんよ。でも仕方ないじゃないですか。その会社の人間が、私がその会社で起こした事件の新聞記事を世間にばら撒いてしまうんですから。

    不愉快でお怒りのお気持ちはとてもよく分かります。でも、こちらの事情も少しで構いませんから、汲み取って頂けたら嬉しいです。読んで不愉快でしたら、本当に申し訳ありませんが読まずに目を瞑ってやってください。

    同じ会社でも、貴方のように活き活きと働かれている方がいらっしゃることを知って、何故か安心しました。今後記事を書く時は、頭の片隅に留めさせて頂きます。

  4. これだけは断言できます。
    あの職場は酷い。
    生きる道は他にもある。
    それは間違いではなかった。

  5. >>4 モリゾウさん

    コメントありがとうございます。
    そちらの職場にお勤めの方か、他職場にお勤めでその目線から見られてそう感じられたのか存じ上げませんが、そのような感じ方をされている人が他にもいらっしゃったことを自分の中で再確認することが出来ました。

    他の生きる道を選んだことを間違いではないと言って下さったこと、とても励まされた気持ちです。

    まだまだ再起と言うには程遠い状況ですが、自分に出来ることから少しずつやっていきたいと思います。

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