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最後の乗務の日② ~ラストブレーキ~

前回の話はこちら↓

最後の乗務の日① ~温かい同期の見送り~

 

同僚たちに想定外の見送りを頂き、感無量の思いで最後の乗務へ出発した私。

 

この日ばかりは目が冴えていて、非常に高い集中力で運転を行うことができました。

 

もう機関車の運転席からこの景色を見ることは二度とないわけで、そう思うと退屈で仕方なかったいつもの景色も違って見えました。

 

 

途中、沼津駅に停車し、そこを発車すると、近くの踏切に家族が見送りに来てくれていました。

 

沼津発車直後で速度が30キロあまりしか出ておらず、そこには母、弟二人のほか、先月他界したおじいちゃんまで来ていることがはっきりと分かりました。家族がJR貨物の運転士として働く最後の日を見送ってくれたこと、本当に有難く感じました。

 

私は手を振る家族に向けて長緩汽笛一声を返し、家族の横を過ぎてから列車を加速させていきました。

 

このときの1050レは沼津を発車してからは東京ターミナルまで途中停車駅はなく、非常にスムーズに到着することが出来ました。

 

いまこの瞬間通っている線路は、もう二度と自分が通ることはない。そう思うと全ての瞬間が儚いものに見えてきて、まるで明日で廃止されるさよなら列車を運転しているかのような感覚になりました。

 

 

機関車を留置して到着点呼を受け、東京ターミナルで最後の休養を取ります。

 

 

もう不規則な乗務で日々の寝不足に苛まれることもない・・・

 

痔を心配しながら長時間運転する必要もない・・・

 

治った病気の治療器具を延々持ち歩かされることもない・・・

 

 

それは非常に有難いことでしたが、この制服を着ること、この名札をつけること・・・そんな些細なことさえも全て最後だと思うと、いちいちしんみりとした気持ちになるのでした。

 

 

こういう気持ちを感じられることは、とても幸せなことだったと思います。

 

運転士は些細な事故で乗務を外され、場合によっては二度とハンドルを握らせてもらえずに職場を去ることになる仕事ですから、たとえ辞めるつもりがなくても、明日突然運転士の職を失うことだってあるわけです。

 

そういう人は当然同僚に見送ってもらえることもなく、あいつは事故を起こした運転士だと、まるで社内犯罪者のようなレッテルを貼られて、肩身の狭い思いをして職場を去らなければなりません。

 

気持ちの整理をする猶予すらなく、明日には乗務出来なくなっているかもしれないのです。

 

 

ですから自分自身で終わりを決め、その日までハンドルを握れることは、とても幸せなことだと思います。

 

私はそんな有難い気持ちを感じながら、この会社で最後となる短い休養を取りました。

 

 

そして日付が変わる前の23時頃、いよいよ最後の列車に乗る時が来ました。

 

 

私は当直へ行き、最後の機関車の鍵を受け取ります。

 

私が人生で最後に運転する機関車は、EF210-112号機でした。

 

この時代において、EF66-0番台がいいなどと言うのは贅沢です。乗り慣れた機関車で最後の乗務を安全に終えられること。とても有難いことだと思いました。

 

最後の時刻表を機関車にセットして、私は出区点検を始めました。

 

 

 

出区点検を終えてしばらくすると、機関車を出区させる信号が引かれました。

 

「識別オーライ、入換進行!」

 

私はそう喚呼して機関車を出発させ、留置線から着発線に移動します。

 

東京ターミナル内の複雑な線路で、機関車が左右にガクガクと揺さぶられる不快な感覚も、自らの身体で感じることはもうありません。

 

旅客列車にはない無骨な乗り心地は、最初こそ新鮮でしたが、長く乗っていると不快でしかありません。この揺れが、痔を悪化させる原因の一つでもあったのですから。

 

 

駅員に誘導され、最後に引っ張るコンテナ車に機関車を連結します。

 

連結してから発車まで15分近くあり、作業を終えてからは外に出て、自分が最後に運転する列車をじっと眺めていました。

 

 

 

「これが人生最後に動かす列車か・・・」

 

 

そんなことを考えながら立っていると、静岡の同僚4人が歩いてやってきました。

 

ここは東京。さすがに見送りではありません。彼らはこの列車に便乗で帰る運転士たちでした。4人のうち1人は指導員です。

 

この日は8月12日。もう世間はお盆休みに入っており、この日に東京へ到着する列車はあっても、折り返し東京を出て行く列車はほとんど運休になっていました。

 

そのため上り列車を運転してきた運転士の大半が下り列車を持っておらず、唯一走るこの列車に便乗してきたということです。その中には、昼間に私を見送ってくれた年下の入社同期も一人いました。

 

私が今日で最後の乗務だと知らない先輩もいて、それを知ると先輩は記念写真を撮ってくれました。

 

 

夜空の下でヤード灯に照らされた構内で佇むEF210-112号機。

 

その前で撮ってもらったこの写真が、私が制服を着て写った最後の写真でした。

 

 

発車待ちの時間もあっという間に過ぎ去り、いよいよ列車を発車させるときが来ました。

 

便乗の指導員が前に乗ってきて隣に座り、最後の乗務を見守ってくれました。

 

 

彼は指導員の中でも数少ない国鉄時代から勤め上げてきた人物で、乗り合わせるとよく国鉄時代の話をしてくれました。

 

 

労働組合が違うからという理由で若いうちから差別を受け、制帽を隠されたりといういじめを受け、苦労してきたこと。

 

国鉄時代の若い頃に車の飲酒運転で事故を起こしてしまい、今の時代では許されないものを昭和の時代だったから許してもらえたこと。

 

113系電車に冷房が乗ってから車重が重くなり、ブレーキの効きが悪くなってホームを行き過ぎてしまったこと。そんな時にバックさせず、はみ出た車両のドアを閉め切りのまま客扱いして発車させてしまったこと。

 

 

そんな古き良き時代だからこそ出来たエピソードをいくつも聞かせてくれて、私はそんな時代に思いを馳せるのがとても好きでした。

 

私の運転は基本動作から外れている部分もあっただろうし、きっと褒められたものではなかったと思います。

 

それでも彼は最後の乗務でそれを咎めるようなことはせず、黙って見守ってくれました。

 

私が見習いのとき、運転士見習い卒業の試験列車の運転を見てくれたのも彼でした。

 

 

深夜ということもあり、途中ノンストップの速い列車だったので、静岡貨物には2時間足らずで到着しました。

 

静岡貨物停車、本線! 本線場内進行!

 

最後は側線ではなく本線乗継ぎの列車で、場内出発とも進行信号のまま。私は最高速度100㎞/hで静岡貨物駅構内に進入します。

 

副本線へのポイント通過後に自弁4段。強めにブレーキをかけて一気に減速し、単弁を3段に掛けて自弁1段へ階段緩め。最後は単弁を残したまま転がし、自弁2段で停車。

 

そんな基本動作とはかけ離れたラストブレーキで、私は最後の列車を停車させました。

 

 

 

最後の列車を停めた時に思わず出た言葉は、「ありがとうございました。」でした。

 

 

 

列車を降りると、一気に脱力感が襲ってきました。

 

今日まで背負っていた重い責任から解放されて、一気に疲れが出たような感覚でした。

 

最後の列車が走り去っていくのをしっかり見送り、私は指導員や先輩方とともに詰所へ戻ったのでした。

 

 

JR貨物の運転士としての人生が終わったこの日は。私にとって大きな節目でした。

 

明日からはもう運転士ではないのです。

 

それは自分で決めたことであっても、やはりもの悲しいことではありました。子供の頃から最も憧れ続けた職業を手放したのですから・・・。

 

 

次回に続きます。

 

 

この話の続きはこちら。

人生で最も自由な47日間 ~いつ死んでも後悔しない経験をする~

 

会社を辞めるまでの話を最初から読まれる場合はこちらからどうぞ。

一生働くつもりで入った会社を辞めるまで① ~時限爆弾が爆発する~

 

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鉄道会社で働くことへの憧れ ~将来の夢にどんな絵を描いたか?~

 

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