私が「なぜこのブログを書くのか?」という記事で書いた、文化展のことは覚えていらっしゃるでしょうか。
今年の始め、その文化展に出展を決めたことでネットに私の実名が乗り、それを見つけた元会社の何者かが私を陥れようとして、3新聞分の記事の切り抜きをコピーした紙を実行委員会、観光協会、町役場に送り付けてきたというのがあらすじです。
詳細はそちらの記事をお読み頂ければと思いますが、今月に入り、来年開催される文化展の募集が始まりました。
前回そのような形で迷惑を掛けてしまった私は、今年は自粛するつもりでいました。
しかし、先日文化協会から連絡があり、意外なことを伝えられました。
「今年町を出て老人ホームに入居する高齢の方がいて、現在自宅を整理中とのことです。その方が昨年加納さんの作品を見ていて、自身が今まで集めてきた模型を是非加納さんに寄付したいと言っています。」
そう言われました。
突然の連絡に驚きましたが、苦難の多かった文化展への出展がこのような形で報われるとは夢にも思っていませんでしたので、同時に嬉しい気持ちでいっぱいになりました。
「もちろんです、大切に受け継がせて頂きます。」
そういった趣旨のお返事をしたところ、
「先方の方も、引き取って下さる方がいて、嬉しく思っていることと思います。もうすぐ次回文化展の申込みが開始となります。今年もご参加いただけたら、嬉しいです。」
そんなオファーのお返事を、頂きました。
前回あれだけご迷惑をかけてしまった文化協会の方にこのようなお言葉を頂いてしまい、とても胸が熱くなりました。
私のような犯罪者を排除するどころか、再び招き入れて下さるこの人情。
沼津で暮らしていた時には決して味わうことのなかった人の温かさ。改めてこの町の人々の優しさに心洗われる気持ちになりました。
そんな出来事がありましたので、今日は人の優しさの本質とは何なのか?私自身が感じていることを書きたいと思います。
事件を起こしてから人間関係には特に敏感になっている私ですが、そのせいか、人の優しさというものについて考えさせられることが多いです。
日々生活していれば、赤の他人でもエレベーターで開ボタンを押し続けていてくれたり、クルマに乗っている時に道を譲ってくれたり、些細なことでも人の優しさを感じる場面はあると思います。
それは確かに有り難いことですが、その人に心から救われるかというと、ちょっと違うと思います。なぜなら、それは日本人としてのマナー、モラル的なものであり、やって当然くらいの他人行儀に過ぎないからです。
ではもう少し深いところで、近所の顔見知りではどうでしょうか。
目が会えば挨拶くらいはするものの、ご近所でもそれ以上の関係になる人というのは思いのほか少ないものです。
では友達、同僚ではどうなのか。
このあたりになると、助けたり、助けられたりといったやりとりが必然的に多くなってくると思います。
この関係を「お世話になっている」とよく言いますが、この場合、何かあった時でも「お前には世話になってるからな」「先輩にはお世話になっておりますので」という理由で助け合いをすることが多いのではないでしょうか。
要するにお互い様ということですが、これは優しさと言えるのでしょうか?
私個人としては、これは優しさとは思いません。
結局のところ、助けてもらう裏には相手が見返りを求めているという要素があるからです。
「あの時助けてやったんだから、今度はお前が助けろよ」
「お世話になっている」という言葉の裏には、暗にそういう意味が込められていると思うのです。
そのため、どちらかがこのバランスを崩すと一瞬で関係は崩壊し、裏切った、裏切られたの敵対関係になってしまうと思います。
このような人間関係は結局のところビジネス、取引のようなものであり、この人間関係を維持するには常にバランスに気を遣っていなければならず、長く続けているうちに疲れてしまうことでしょう。この関係を、「取引の人間関係」と呼ぶことにします。
自分が友達だと思っている人間も、大半は取引の人間関係を基礎として友達という体裁を保っているのではないでしょうか。
前回の記事に通じる部分ではありますが、そういう友達はこちらがしくじった時に離れていくか、つけ込んでくることでしょう。
私のように犯罪を起こして逮捕されるのは極端ですが、仕事でミスをしたり、自己都合を優先して仕事の穴埋めに協力しなかった場合にも、「お世話になっている」が前提である取引の人間関係はすぐに崩壊します。
私のやっていた仕事ではこの辺りのバランスが崩れた時の空気は顕著でした。
例えば事故を起こして乗務を外された運転士がいれば、その人はずっと後ろ指をさされることになります。
たとえその事故を起こしたのが何年も前でも、有給を申請したり個人的な事情で勤務変更を申し出れば、
「あいつは事故起こしたくせに身勝手だ、本当に反省しているのか」
という目で見られ、昇職試験を受けようとすれば、
「事故を起こしたやつがなんで偉くなれるんだ?身の程を知れ」
といった目で見られる風潮がありました。
また、勤務変更や列車が遅れた時の対応を求められた時に自己都合を理由に断れば、
「あいつは協力性がない。人の頼みは断るくせに自分の要求は通してくる」
といった具合に、取引の人間関係では、少しバランスが崩れただけであっという間に険悪なムードになってしまいます。
極めつけは、昨日まで仲良く話していた人同士の一方が、労働組合を変わっただけで口も利かなくなるなんてこともありました。
労働組合はともかく、このような人間関係のもつれは私がやっていた仕事に限らず、サラリーマンならどんな職場でもあり得ることだと思います。
私が言いたいのはそれが良いか悪いかではありません。
仕事で失敗したり、協力性がないからといって、その人の人格自体を否定できるものなのか。ということです。
相手が何もしてくれないから、こっちも何もしない。
おれがあの時こうしてやったのに、あいつは何も返してこない。
このように常に自分が見返りを得られないと相手を否定してしまうのは、その人自身に本質的な優しさが無いからだと感じます。
こういう人は、きっと自身も人からの本当の優しさを受け取ることは出来ないでしょう。
私もそのような世界で何年も生きてきたし、今までその在り方に疑問を感じたことはありませんでした。
しかし自分が今のような状況になり、所詮は取引だった人間関係が全て崩壊すると、人間の本質的な優しさがどんなものなのか、明確に見えるようになってきました。
人の優しさの本質・・・
それは、見返りを求めず与え『続けて』くれること。
だと思います。
ただ与えるだけではなく、与え続けるということが重要な要素だと感じています。
今住んでいる町の地域の方々は、私のような人間に何の見返りを求めることもなく、食べ物を与えてくれ、生活に必要な物を与えてくれ、そして居場所も与えてくれました。
引きこもる予定で引っ越してきた私は、最初の半年くらいは何のお返しもしませんでした。
もちろん受け取った時に口でお礼は言いますが、その見返りに私から何かを返すことはしませんでした。
何かを与えてくれることは一見優しさに見えますが、もしこれが取引の人間関係ならすぐに
「この間あれをくれてやったのに、あいつは何もお礼をしてこない」
「せっかくこっちが気を回してやったのに、誠意の無いやつだ」
ということになり、あっという間に村八分になっていたことでしょう。
そこまで思われなかったとしても、受け取ったのが1回だけだったら、私の中で変化は起きませんでした。
ところが、地域の方々は何のお礼もしない私に、何度も何度も色々な物を与えてくれました。
そうして見返りを求めずに与えてもらっているうちに、私は完全に閉ざしていた心が徐々に開けるようになり、私自身からお礼に何かをしたいと思って行動を起こせるまでになったのです。
「相手が何も返してこなくたって、俺はこうしてあげたい」
常にその気持ちを持って相手に接し続けること。これが出来る人こそ、本質的な優しさを持った人なのだと思います。
そういう人に対しては逆に自分も何か役に立ちたいと思うのが普通で、取引の人間関係のような義務感ではなく、自発的に行動を起こしたくなるものです。
その結果、お互いに良い影響を与え合うようになり、絆が深まります。
今思えば、前回の記事で書いた私の親友も、そんなやりとりがきっかけで仲良くなっていきました。
高校を卒業するまではたまに遊ぶ同級生の一人でしかありませんでしたが、進学して私が自動車整備士の勉強を始めた頃、彼はバイクに乗るようになっていました。
しかし整備の知識は無いため、夏休みなどで私が沼津へ帰省すると毎日のように会い、バイクを弄ってあげて一緒に走りに行っては、ランチを奢ってもらってという過ごし方をするようになりました。
私は整備士の卵として勉強している身であったこともあり、知らない車種を弄れるならと興味本位でやっていて、本質は違えど整備の見返りを求めたりはしませんでした。
しかし彼としてはバイク屋に持ち込めば高い費用も取られるし、その割にカスタムとなると融通も利かなかったりしてもどかしい部分もあったことでしょう。
それを無料で何度でも弄ってもらえるのですから、有り難いと思ってくれたのだと思います。
もしそこで私が整備費としてお金を要求すれば、彼も取引の人間関係になってしまっていたでしょう。
しかし、当時の私が興味本位という動機であれど見返りを求めなかったことによって、いつの間にかお互いの絆は深まり、心から信頼できる親友になってくれたのです。
今思えば会社の同僚のバイクを弄っていた時も、それが自分の趣味だったこともあり特に見返りは要求しませんでした。
大勢の人のバイク整備してきましたが、相手の反応は様々でした。
1・掛かった部品代だけ請求すると、その金額に万単位を上乗せしてくれ、かつ自宅で採れた野菜をロッカーに入り切らないくらい持ってきてくれ、かつ外食にまで誘ってくれた先輩。
2・掛かった部品代だけ請求すると、部品代と一緒に手土産を持ってきてくれて、かつ休日にツーリングに誘ってくれた先輩。
3・掛かった部品代だけ請求すると、金額分をきっちり持ってきてくれて、かつ自販機のジュースを奢ってくれた先輩。
4・掛かった部品代だけ請求すると、1万円札を渡してお釣りをよこせと言い、「何も出ないけどな」と言い放つ先輩。
5・無償で受けた整備作業が難航し、納期が延びていたところに、「ちょっと遅すぎるんじゃないのか?」と言い掛かりを付けてきた挙げ句、納車時に部品代だけ請求すると、きっちり部品代だけ渡して黙って帰っていく先輩。
こちらが見返りを求めずに与え続けても、このように相手の反応は多種多様です。
こちらが申し訳なくなるくらいのお礼をしてくれる人もいれば、いいように使ってくる人、自分が客だと言わんばかりの態度の人。狭い職場にも色々なタイプの人がいました。
みなさんが私の立場だったら、1~5のどの人と心から仲良くしたいでしょうか?この中から親友と呼べる人間関係を築けるのは、どの人だと思いますか?
恐らく大半の人の答えは同じだと思います。
前回の記事で本当の親友を作った方がいいと言いましたが、その作り方が分からない人も多いでしょう。
でも、その相手を見つけるのは簡単です。
このように誰にでも見返りを求めずに与え続け、その中から最も自分が嬉しいと感じる行動を返してくれた人に対して、更に与え続ければいいのです。
私の場合はたまたまバイク弄りという分野がありましたが、そんな変わった形でなくても構いません。
会う度にお茶をあげたり、お菓子をあげたりする程度のことだって、相手の反応は様々なのですから、自分に出来る形で相手に与えてみてください。
それが、人の心を動かす第一歩なのだと、私はこの町の方々から学びました。
地域の方々から受け取り、気付かされた人間の本質的な優しさ。
それが明確になっただけでも、今後の私の人生に良い影響があることは間違いないでしょう。
改めて、この町に引っ越してきて良かったと思いました。
来年の今頃には執行猶予も終わる予定です。その時になっても雇われて働くことに体が適応出来なければ、この町と地域の方々の役に立てるような、小さな自営業を営むのも良いかなと思うようになりました。
この町に救われっぱなしの私。
事あるごとに、この町が好きになっていくのは不思議な感覚です。
たとえ仕事ができなくてお金が無くても、負のオーラが立ち込めた世界や競争主義の世界でギスギス生きるよりは、ずっと幸せなことなのかもしれません。
今回も読み応えのある記事でした
実体験を基に優しさとは何か書いてあるので情景がわかりやすく浮かびます
あと、よく出てくる新聞について
私は法律の専門家ではありませんが、名誉毀損から身を守るために送られてきた封筒、新聞のコピーなど証拠の保全はできていますか。だれが送ったのかわかりませんが今後も繰り返す場合、それなりの準備はしておいたほうがいいかもしれませんね。あとは時間が解決しくれますよ、きっと。
犯罪歴を会社に密告した人を名誉毀損罪で訴えられる?
https://legalus.jp/internet/defamation/qa-1077
>西日本さん
いつもコメントを頂きありがとうございます。お返事が遅くなってしまい申し訳ありません。
私自身、このような経験をしてこなければ、この本質的な部分に気づくことは無かったと思います。私が今でもこのような優しさを持てているとは言い切れませんが、本質を自覚出来ただけでもプラスの学びが得られたと思っています。
新聞記事の事件について、お心遣いを頂き本当にありがとうございます。
私自身としては、行動を起こした側の人間をどうこうしたいという気持ちはありません。その種は私が撒いたのですし、相手がそのような行動をもって自己満足出来るレベルの人間なのでしたら、同じ土俵には立ちたくありません。
今後もやりたければやればいいと思いますし、私はその事実を甘んじて受け入れます。そして、こういう人間の行為によって私自身の過去を知って離れていく人間とは、そもそも良い人間関係は作れないと分かりました。そのため付き合う人間をふるいに掛けるという点においては、逆に良い機会だったのかもしれません。そういう意味では、むしろこの人物に感謝しなければいけないかもしれません。
この記事を読めてよかったです。