前回の話はこちら。
サラリーマンとして働く人にとって、転勤というのはある意味避けて通れない道かもしれません。
せっかくその職場で良い人間関係が作れて、仕事にも慣れて毎日気持ちよく働くことが出来るようになったのに、突然転勤を命じられれば、それらを全て捨てて一からやり直さなくてはいけません。
逆に今の職場で上手くいっていない人にとっては転勤は幸運に思えるかもしれませんが、やはり新しい環境へ移るのには気も張りますし、不安も感じることでしょう。
私は吉原駅に勤めている間、人間関係は良い方だったと思います。年配の先輩方は優しく何でも教えてくれたし、歳の近い先輩方とも日々仕事をしているうちにチームワークが取れるようになってきました。
近くの焼きそば屋で全員分の焼きそばを買ってみんなでお昼に食べたり、喫煙所でタバコを吸う先輩の横で国鉄時代の昔話を延々聞かせてもらったりと、日常の中にある小さな出来事を幸せに感じながら過ごすことが出来ました。
短大で学んだ自動車整備のスキルも、先輩のバイクを直したり会社の社用車の整備をしたりと、意外にも活用できる場面が多くて重宝されることもあり、短大で過ごした2年間も決して無駄にはなりませんでした。
仕事の方では最初は覚えることも多くて苦労したものの、やはり非日常感があって楽しく働くことが出来ました。
初めてワム80000の側面デッキにつかまって走行した時はとてもスリルがあって楽しかったし、DE10のデッキに立って日本製紙の専用線に入っていく瞬間などは、普通では絶対に見られない鉄道の風景に言葉も出ないくらい感動したのを覚えています。
長編成のワムが動くとき、機関車が起動すると前の車両からガシャガシャと連結器が張っていき、一番後ろに乗っていると物凄い衝撃になって振り落とされそうになることもありました。
そんな苦労さえも喜びに感じられるくらい、鉄道の現場で働けることが嬉しかったのです。
一見機関車を誘導して貨車を動かすだけの単純な仕事に見えても、操車の人は入換の順序を考えたり、本線を横断する間合いを見計らったり、ポイント操作係の人に指示を出したり、JR東海の信号所と打ち合わせしたり・・・
本当に考えなければならないことが多くて驚きました。
私は操車の補助をする連結係しかやらずに終わりましたが、それでも作業内容を把握していないとテキパキ動けなくて入換作業を滞らせてしまうし、エアホースのコックの開閉状態や連結器のピンの状態など、列車を仕立てた時の確認に気を付けなければ大きな事故に繋がってしまうので、作業中は緊張感のある行動が必要とされました。
長い時は40両以上にもなるワム80000の編成を端から端までチェックしていくのは骨が折れたし、何百メートルも歩くことになるので夏場などは炎天下でジリジリと焼ける線路の上での作業となり、それなりの苦労もありました。
時には無線機で運転士に指示を出しながら連結作業の誘導をしたりするのですが、誘導が下手だと手前で止めてしまったり、酷い時は貨車同士をガツンとぶつけてしまったりと、なかなか上手く行かずに皆さんに迷惑を掛けたこともありました。
それでも日々の仕事を通じてスキルを磨き、少しずつ人並みの仕事が出来るようになった頃のことです。
突然会社からお声が掛かりました。
今度の運転士昇職試験を受けるようにとの通達があったのです。
吉原駅で勤務してから半年経つかどうかくらいの時期でした。
半年間駅で過ごしてきた私は、職場の先輩の話も沢山聞いたし、吉原駅にやってくる運転士の方から話を聞くことも出来ました。
正直なところあまり良い話は聞かなかったこともあり、私自身運転士になってみたいという気持ちはあったものの、もうしばらくは駅に居たいというのが本音でした。
せめて一年は駅で働かせて欲しいと言いましたが、希望は聞いてもらえずに試験を受けることになってしまいました。
運転士に登用する試験はいわゆる昇職試験のようなもので、実際に運転士になれば給料の等級も上がるため収入は増えます。
ですが当然職場を転勤することになり、これまで築き上げてきた居場所を捨てなければなりません。
たった半年という短い間だったのであまりに名残惜しく、やはりもう少しこの職場にいたいという気持ちが強かった私は、先輩からある助言を受けます。
「いま運転士になるのが嫌ならわざと試験落ちればいいじゃん?」
全くもってその通りでした。
逆転の発想です。試験に受からなければ行きたくない職場へ転勤させられることもないので、このまま駅員としてもうしばらく過ごすことが出来るに違いありません。
わざと落ちよう。
そう決め込んで臨むことにした試験でしたが、直前にとんでもない落とし穴が待っていたのでした・・・。
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